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2012年

8月

24日

最後の手紙

                                           text 宮岡秀行

 

今日はリュック・フェラーリの命日です。

フェラーリはイタリアのアレッツォで「客死」しました。亡くなる直前のフェラーリの手の美しさを、ブリュンヒルト・フェラーリに聞きました。まるでピアニストのように、宙を弾いた……と、七年前のその瞬間を、妻は忘れるわけがありません。
愛する人の死に立ち会うとはどんなものでしょう。私はまだ経験がありませんが、元彼女の死の報せを聞いたとき、彼女の美しい躰を想像しました。
長年連れ添った妻が音楽家の手を語るように、別れた恋人が自殺したとき、思い出すのは肉体的な記憶でした。
火葬場で骨になっても、灰と化しても、肉体が見えるのです。
家族が亡くなると、そうではないかもしれないけれど、愛する人は死んでも肉体が迫ります。
いや、家族ですら、肉体を想像するかもしれない。親が子に先立たれたら、子どもが熱を出したり下痢をしたり、運動会のまえに躁状態になって何時間でも起きていたりした躰の表情を、思い出すんじゃないだろうか。
親は、子の柔らかい躰の動きの中に、見事な表情のある形をいつも発見しますから。
しかし、大人は反復的な社会生活を生きていかなければなりません。まさに小津の映画のような、いろいろな生活の型というものに長い間組み込まれて生きていきます。
雑草のような日常とは嘘です。勉強やデスクワークをするときには机に向かい、用をたすには便器に腰掛け、就職すれば電車か車に乗って通うというように、そういう生活のなかで、躰の感受性というものは規定されます。そして、この反復的な生活のなかの身体の感覚が無意識的にどんどん沈殿していくさまを、「社会」と呼べばいいでしょう。年齢とともに石膏で固められた人間になること、社会人とはそのような型のことです。
子どもと同じように、躁状態になったり、閃きがあったり、あるいは性的に興奮して、それを遊んでみたいと思っても、いざとなると遊びきれないということが起こるのは、私には映画ファンに多いような気がするのです。
眼だけが肥大化して、とっさに無意識に沈殿したものを客観化できず、客観化できたとしても躰がすでにフレキシビリティーを失くしている。

私たちは小さい頃から文部省の監督する画一的な教育を受け、会社に入れば同じ背広、映画祭にいけば同じTシャツを着た人たちが居る社会に属します。
そういう意味では、見た目は社会化されている日本の映画業界も、内実は弱体化しているとは、アップリンクの支配人への手紙に書きました。
アップリンクのように、全体のなかで孤であることはできても、個であることを選択できなくなってきている…。
ムカシであれば、ルールを知った上でそのルールを捨てればよかったのだけれども、今は捨てることすらできにくくなっている。できるのは小さな違いを主張するだけで、それは管理システムから離脱できないことの代償行為をしていると言ってもいいでしょうか。
小津安二郎や溝口健二の時代との違いはここでしょうか。
つまり社会と孤というものがどういう関係にあるのか、そして個性とは何か。

先日亡くなったトニー・スコットの映画は、現代映画でもっとも断片化の激しいモンタージュが特徴的でした。情報交換の加速といえば簡単ですが、コンピューターや携帯電話、電子手帳やモニターがスゴい速度で切り返され、まるで失読症に冒されたように、同一対象に集中する注意力を長時間持続することができないかのような画面が連鎖します。
その素早いモンタージュに、注意力は追いたてられ、もはや、愛や優しさ、自然、歓びや思いやりといったことに気持ちを向けることがないかのような畳み掛けに、逆説的ですが、彼の映画は愛を、まさに「トゥルーロマンス」を追い求めていたように思います。

わたしたちの時間性が、『エネミー・オブ・アメリカ』に描かれたような、超複雑なデジタル機械の狂気じみたスピードについていくことなど、土台無理なことです。
アップリンクのスタッフが、フェラーリ上映会のツイートが百件を超えてスゴい勢いと、うなぎのぼりの動員数と共に報告をくれますが、それに返す彼女たちのリツイートが、超過労働の規範をつくり、映画大本営を局所に点在させ、自分の居場所をも麻痺させるさまは、必ずしも悦ばしいとは言えません。
そこで起こることは、返信に追われた様々な管理不足から生じる、アテンション(注意力)のための時間の喪失、あまりに膨大な情報処理を強いられた、一人の人間の肉体の消耗があるだけです。
チラシが撒かれなかったり、マスターテープの紛失事件は、こういったもはや気が散るとすら言えない、過剰なデジタル労働時間の中で起こりました。

人間の社会においては、先頃行われた首相官邸での市民団体と野田総理たちとの会談のように、原発社会は無くなることはなく、原子爆弾で起きた(そして再び起こるであろう)ような文化的な自己顕示欲が取り消されることなど、まずありえないでしょう。
そことここはデジタル回路を通じて繋がっています。デジタル環境は、肉体的に見たら、人間が自己変革する場なのではなく、あくまで環境の変化に人間が合わせていく、都市的なツールですから、そこにいる人は、代替可能なエージェンシーでしかありません。

アップリンクのデジタル労働を、大抵の映画祭、大抵の企業が行っていたとしたら、そこに「2」のための愛情や会話やセックスの時間は残されているのだろうかと疑ってしまうのです。
極端な場合、薬に依存した精神安定の反面教師として、存在することの否定、消えることへの欲望が、イジメや自殺への意志として併行して育まれることは、明らかなように思われます。
孤心が行きつく先が、虚脱感のデジタル労働空間だとしたら、個人の社会との繋がりは、もしかしたら自殺なのかもしれない…。
三島由紀夫から9・11で散ったあの魂、そして、自殺して行った彼女の肉体やトニー・スコットや大津の中学生を想起するとき、誰よりもそこに、愛と希望を私は感じはじめている、と書けば、不謹慎でしょうか?
日本で恋愛映画が成立しにくいのも、エリック・ロメールの映画に出てくるような個性が、男にも女にも備わっていないからではないでしょうか。
個性とか個人は近代社会が生み出したフィクションとしての言葉です。そして、その最大公約数的なものが、デモや暴動のような反体制的、反社会的な意識の共同性だった筈ですが、いま触れたように、その共同性には孤が個に至るためのプロセスとしての場が、欧米社会に比べて希薄だったと言えると思います。

イスラエルにカフカやカール・クラウスがいないように、同じくアメリカ依存の日本には、自国の社会基盤を根本的に問うような「身体の共同性」は戦後一度も問われていないと言えます。
「そもそも映画には社会を変える力はない。社会に助けて貰ってしか映画は作れない。」とは若き日本の映画人からの手紙の一文ですが、しかしアメリカ映画は、『ダークナイトライジング』のようにゴッサムシティとニューヨークが瓜二つのような社会的現実をつくりだし、それは被災地の気仙沼で撮られた『ギリギリの女たち』のような社会に「助けて貰った」日本映画との無限の距離感のように感じます。
社会的現実とは、マルセル・モースの言葉だった筈ですが、それが在ることで社会が形成されるようなシンボルのような、日本で言えばさしずめ「天皇」のような存在ですが。

そこまでして被災地(映画)を撮りたいのかと思います。映画を撮ったり、見たりするより、私は代替不可能な女性と夕陽を見に行きます。
映画から、ジョン・フォードが描いたような夕陽が見られなくなったのだから、田舎にでも行って、日本酒を飲みながら夕陽を眺め、飲酒運転で彼女をお家に送り届ける、その径すがら、誰の記憶にも残らないような梅の木でもあれば、そこまで歩いていくのがいいのです。
観光や旅行は人間の大罪だけども、「偶然の出会いがいちばん素敵なことなんだ」とは親友の映画監督のメッセージですが、運命とかに実体化しない、めざすべきは、ゆるーい偶然だと考えるというのは楽しいことです。

今日はフェラーリの命日でした。
今朝シリアで、日本人ジャーナリストの女性が撃たれて死にました。

誕生日と命日、人生はこの二日の間をさ迷った軌跡(奇跡)なのだとは、親友の安藤尋からの、もう一つのメッセージです。

シリアで「客死」した山本美香さんは誕生日をシリアで祝ったのでしょうか。
私は同姓同名の女性と知り合いですが、彼女は…まったくの別人で…。

こんなことを書き送ると、若き映画人からこんな返信が届きました。

ありがとうございます!僕の誕生日は丁度今週24日です。
適当にしてもすごい…そうやって女の子、口説いているのでしょうか…苦笑。

(2012/8/22)

 

後日談:

8月22日朝、シリアで亡くなった私と同じ歳の山本美香さんの記事を読んで、赤い目のまま保育園に子どもたちを連れていきました。長年にわたって戦地に赴いた美香さんの身体と感性、やさしさを心より敬い、お悔やみ申し上げます。

昨日は、平日遊べる人に声をかけて、栄村に行ってラフティングをやってきました。8人乗りゴムボートで川を下るのです。波が立っている流れの激しいところもあれば、穏やかなところもあり、川の中にざぶんと入って泳いだり浮いたり、向かい風に負けないように漕ぎすすんだり……。おもしろかったのは、川の中に入っているときは、みんなすごい笑顔なのに、陸にあがったとたん「大人の顔」に戻ることです(笑)。

京都には変化を好まず革新を好む地域性があって、田舎からやってきた私にはそれが新鮮でした。
日本の地方には、それぞれの地域の味が細々と残っていて、地域の行事に加わり、そこに暮らす人と話し、その土地の食べ物を食べることが、日本の社会の根本をつくっているはずだと思っています。田舎に暮らすと子どもができやすかったり、食料を自分で作ることでお金のために働く時間が減ったり。日本に少なくなってしまった当たり前の感覚から文化や革命や社会が生まれてくるんじゃないか……と、子どもたちの獣のような寝相を眺めながら夢想します。


2012年

8月

16日

楽(落)日

                                           text 宮岡秀行

藤井裕子さんへ

「私」が行うイベントでは、時に、このような問題が起きてしまうのです。

 「映画/千夜、一夜」を終えて、首相官邸前のデモに参加しに出かけたら、いきなり神宮外苑の花火大会に出くわし、道路を阻まれてしまいました。

どこもかしこも道路閉鎖で人人人…気がつくと花火がバンとかズドンとか肝にくる。浴衣姿の女の子たちの歓声があがる、一瞬の間合いがいい。

気持ちがいいので、駐車して青山一丁目を散歩しながら、しかし義務感からか、デモに向かうことに。
噂に聞く金曜夜のデモは意外に閑散としていました。花火大会と比べるからでしょうか、内閣府下周辺は多く見積もっても二千人に満たないでしょう。

しかし問題は、数少ないというより、リズムの違い――ズドン、間、ワアッという歓声に対して、「原発いらない」とか「田中はやめろ」を連呼する、一テンポ遅れて日本語を合わせるデモ隊のリズムは、正直、盆踊りかなにかの輪に捲き込まれたような恥ずかしさがあったことです。
これが表現であれば、恥ずかしさも快楽ですが、「訴える」力であれば、花火の足下にも及ばない……(日本語を合わせる、デモコールのリズムを坂本龍一さんは変える必要ありではないか?)。

花火大会に繰り出す優に二万人の人々が一斉に声を出すような、まるでナウシカのような朝吹真理子さんの声に導かれるようななにかが必要だなと、永田町を後にまだ打ち上がる花火を横目に帰途、イメージフォーラムという映画館にリュック・フェラーリ7回“帰”上映会のチラシ残部を確認に行きました。

すると係の人は、それは届いていないと言うのです。確かに何処にもありません。
チラシをアップリンクに納品して10日以上経っているし、その後シアターNやユーロスペースにも行ってみましたが、どこも「これは届いていない」とのこと。
藤井さんに確認したら、「挟み込んだり撒いたりしたからチラシの残部はほとんどない」とメールが届く。
オカシイ。
気になるのでアップリンクのチラシ置き場に出掛けてみたら、絞めたチラシがほとんど残っており、その他のスタッフに出荷表を調べてもらうと、全く撒かれていないことがわかりました。
「映画/千夜、一夜」のときも、藤井さんのところで約4週間音信不通になりましたが、案の定です。

この仕事を受けたときに、何人かの劇場支配人から「アップリンクは気をつけたほうがいい」と忠告をもらいましたが、それは別の意味での忠告であったのだけど、いま思うと、すべてがつながっていました。

一言で言うと、社会と映画をつなぐ窓としての劇場が機能不全に陥っている、ということ。

少なくとも今回のようなオリジナル企画をこなすだけの余裕が今のアップリンクにはない、ということ。

期間中、私は二度も午前6時前に藤井さんが渋谷を歩いて帰る姿を見かけています。
こちらは朝まで飲んだり遊んだりという頃合いまで、週のうち五日間くらいは、彼女は劇場に寝泊まりして仕事をこなしているのでしょう。
このバランスの悪さは、「1+1+1=-3」といった感じなのです。
ここには労働基準法もなければ、「精神の自由」もないだろうと思いました。

仕事が与えたものと仕事が奪ったものが、朝帰りの藤井さんからは見えてきます。

今回、藤井さんやアップリンクを辞めた岩井くんをはじめ、人としての魅力も立派さももちえる人たちと共同作業できたことは素晴らしいことでした。
しかし、仕事があり、それを通して社会のなかに在る実感がもてないまま、映画のなかにいることは、映画を愛することかもしれないけれど、映画を理解しているとは言えません。

要するに、藤井さんは、孤(ひ)とり努力すればするほど、ゴールが遠のくような短距離走の選手なのです。
独りで抱えられない責任を背負うことは、震災時の管首相のように、かえって無責任な方向にわたしたちを追いやることになるでしょう

最初に、「私」が行うイベントでは、時に、このような問題が起きてしまうと書きました。
それは「私」にプロ意識が欠如しているからではなく、「私」がアマチュアのような精神の自由と、プロとしての責任意識とをミックスしたり、分離したりする余裕がもてないまま、問題が生じるのかもしれません。
とりわけアップリンクは機能不全に、今陥っていて、それをはっきりと顕したのが、「映画/千夜、一夜」でした。


私は遊ぶ
君は遊ぶ
わたしたちは遊ぶ
映画をして遊ぶ
君はこの遊びにも
規則があると考えるかもしれない
(でもそんなものはありはしない
そこで君はそんなものありはしないと考えようとする
でもだからこそ
この遊びにも規則があるんだ)
定義はいろいろあるけれど
二つか三つあげてみようか
他人という鏡に
自分をうつして見つめること
世界と
自分自身を
すばやく、そしてゆっくり
忘れ、そして知ること
考え、そして語ること
おかしな遊び
人生そのものだ

1967年5月 ゴダール
(「わたしたちで映画を作ることを学ぶために友だちに宛てた手紙」)


最終日、河瀬直美さんのいかにもな奈良のおばさん(失礼!)風情と、中村優子の幸多き笑顔という敷居の低いシチュエーションがよかっただけに、客席の疎らさは何とも淋しいものがありました。
佐々木敦さんと安藤尋さんの「部室トーク」と対を成すようなトークで、ひたすらに男性が去勢されるような話題が続出したガールズトークですが、中村さんは鷺島でも内田春菊さんとモニター越しにないしょの話をしてくれたなと、その空気を思い出しました。

その彼女ももうすぐ母になり、『垂乳女』で地上に出てきた男の子もあんなに大きくなってSkypeに出演してくれました。

今回のイベントで一番静かな声だったのは、笹岡啓子さんと岩井くんのトークでした。岩井くんの柔らかな質問に対して、一切の無駄を排して応える笹岡さんは、そのスライドショーと共に、このイベントで唯一音のない原音主義を貫きました。
これこそまさに再現できない、響き。

「音がほとんどない」ということが、どれほど豊かな体験であるか、デモや花火大会の喧騒を掻い潜りながら、あの『Shutter Island』のような小間(齣)切れが、『火垂』のラストカットのように無言の瞳となって迫ってきます。

外は暑いけれど、映画館は長くて深い洞窟、心が遠くに連れて行かれる場所です。

中村優子さんや渡辺真紀子さんや藤間美穂さんが三姉妹を演じた『ギリギリの女たち』を見ました。
それは人間の殻を着て生きて行くことへの揺るぎない女たちの劇的なるもの。
Bel animal (美しい動物)でいること。
いつでも動物のようにいつも風の匂いをかいでいる、「わたしたち」もまた、ギリギリなのだと、35分間ワンカットの緊張を感じながら、懐かしさを、五日間のイベントにすでに抱きはじめているのでした。
(2012/8/13)

 

※ 藤井裕子さん:アップリンク支配人

 

後日談:「田中はやめろ」の田中って、野田(首相)のことですか? 思わず笑ってしまいました(田中でも野田でも、固有名はどちらでもよいところが日本の象徴としてふさわしい)。
ユーチューブでしか見ていませんが、リクルマイさんのデモコールは、心地よいです。

 

http://www.youtube.com/watch?v=Hz2_JeWIpEM&feature=youtu.be

 


2012年

8月

13日

最終日前夜

                                           text 宮岡秀行

私が行うイベントでは、時に、このようなキセキが起きてしまう。

昨夜の、小原真史さん、橋本慎太郎さん、朝吹真理子さんとのシンポジウムは、エキサイティングなものとなった。
小原さんの映画が、実に見事な出来であるから、司会者である私もノリノリで行けたわけだが、橋本さんの中平卓馬との体験談が、写真家としての橋本さんを鍛え上げたプロセスと、ロビーで3日間行った「1」という展示を裏打ちして説得力があり、「90分以上の映画が映画館では見れない。最近タルコフスキーの1本の映画を3回に分けて見た」という朝吹さんと、隣で、無言で何度か頷き合っていた私は、マイケル・マンの映画さながらのズレが美しい関係を映画と構築しながら、更にその隣で、すぐれた映画作家(本人は映像作家と謙遜しているが)特有の無駄のない自作解説を小原さんは展開してくれた。
異質なものがぶつかり合いながら、「1+1+1=1」という極めて『惑星ソラリス』的な記憶の時空が生まれた。
この模様は岩井さんがレポートしてくれているので、その一端に触れてみてほしい。

そのレポートの後日談でも触れたマルクスは、「人間は、社会的存在であるという点で、動物とは区別される」と記したが、その後調べてみると、「労働者は、食べる、飲む、産む、もう少し良くても、住む、着る、といった、自分の動物的な機能の面でだけ、自ら進んで行動していると感じることができるだけで、自己の人間的な働きの面では、自分が動物であるかのように感じることになる。動物的なものが人間的なものとなり、人間的なものが動物的なものになる」という転倒が生じていると指摘する。
「食べる、飲む、産む、などは、人間的な働きでないわけではないが、それらを人間的活動のその他の領域から切り離して、それだけを究極の目的としてしまうような抽象化が為されるなら、それらは動物的なものとなる」と続けるのは、岩波文庫版『経済学・哲学草稿』のマルクスだ。

調べてみて迂闊だったのは、ここに「産む」というテーマが見え隠れすることだ。
マルクスはこれを記したとき、具体として性別をあげずに、人間として「動物」を捉えているのである。
一方で性別を視覚的に捉えてしまう映画は、恋愛ものからロマンポルノまで、性差を武器にしたメディアであって、神代辰巳の『悶絶どんでん返し』からロメールの遺作に至るまでが、それを倒錯的に変形・活用してきたことはすでに記した通り。

最終日に上映する『火垂2009』を前夜に試写して気がついたのは、河瀬直美さんの映画の性差は、自らの快感原則に忠実であるということだ。乳房を覗きみるなどという映画的な快楽とは無縁で、出すか仕舞うかの二者択一、なのだろう。

「母が男の子を自分とは違うものとして、乳と共に人生を押しつけないからである。母は、男の子にとって、単なる授乳機械にすぎないが、女の子は、子どものときから身体を母に委ねることの意味を知っている。お前はどうして私の乳を飲まないのか、お前は私と同じ性別で、男の子よりもはるかに弱い従順な子どもである筈だから、私の言う通りにしない筈がない。それが、母の娘に対する期待である」とは、小倉千加子が『ナイトメア―心の迷路の物語』に記した一説だが、この一文を読むだけで、私が今まで出会った中で誰が豪傑かという問いに結びつく。絶倫はたしかにいるけれど…男にそもそも豪傑は居なかった…母…母の母…。

朝吹真理子さんに舞台上で自作の朗読をお願いした。なんの断りもなく、彼女は私が囲った行を読んでくれたのだが、これもまた豪傑の成せる術だろうか、それとも1984年というSFの金字塔が生まれた年に生まれた小説家の、これは筆答だろうか。
朝吹さんが人前で朗読することすら知らなかった私は、あまりに美しいそのイントネーションにクラクラした。会場に居た誰もが息を呑んだその朗読は、これまでの生涯で聴いたもっとも神秘的な声だった。声は書き写せないが、この日がなければフロッタージュの如く浮き上がらなかった「文字」を引用しておこう。

「貴子は、身のうちに流れる生物時計と、この家の時刻と、なべて流れている筈の時間が、それぞれの理(ことわり)をもってべつべつに流れていたように思えた。また時計が鳴る。やはり鳴りすぎると貴子は思った。」
朝吹真理子『きことわ』

私が行うイベントでは、時に、このようなキセキが起きてしまう。

それは私の仕業ではなく、それぞれがそれぞれの関わりにおいて、責任をもち、応答を繰り返したからだ。客席に居た中村優子さんも、ものスゴく面白かったと、お腹の中の生物時計がいつになく暴れて、興奮を体感してくれたようだった。
(2012/8/10)

2012年

8月

11日

四日目

                                           text 岩井秀世

世界があり、社会がある。
社会があるのは、人間が集団で生活をするための前提条件として、条理やシステムを必要としたからであり、それに適用できない(しない)人間は、非社会的な茫漠とした世界を彷徨う。そこには人間の条理とは全く別の時間が流れていて、例えば虫と鳥の区別もない。それがなんであるかという前に、知覚された、例えば赤という色に反応する。そのような言わば獣的な感覚は、本来どの人間にも宿っているものだと、小説家の朝吹真理子氏は言う。それは人間社会の条理や理(ことわり)を疑いもしない人間にとっては「不気味」な危険なものでしかないのだろう。

おそらく、現在の中平卓馬氏は、更にその世界に深く入り込んでいるようだ、と十年近く中平氏と随行している、同じく写真家の橋本慎太郎氏は語る。しかし、中平氏も記憶を失う以前、例えば70年代に沖縄問題に関わりを持っていた時期は、おそらく社会の側にもいたのだろう。ただ、その頃から社会という器の外側の存在に中平氏は既に敏感であったことは想像に難くない。『なぜ植物図鑑か』と言った書物を書き、ドキュメントされた一枚の写真が、社会の側から思惟的に作り変えられることに苛立つ。社会とは中平氏にとって、それがねつ造された、ただの空疎な容器であると言わんばかりに。

4日目の『カメラになった男 写真家 中平卓馬』の上映後のトークショーで語られたことの一部を要約してみたが、だとすると写真というのが、世界を写すものであり、映画というものが、社会を写すものに親しい関係にあるような気がしてくる。司会の宮岡氏が、「映画の側」から発言された監督小原氏への質問で、本映画は小津的なシンプルに円環を巡る構造と、小川伸介的なモンタージュによってできているという批評があったが、それは社会の向こう側に行ってしまったものを、社会の側から解釈する行為なのかもしれぬとも思う。それをねつ造と中平氏は怒るだろうか。

本特集を、あえて通常よりも多く女性を呼ぼうとしたコーディネーターの宮岡氏の真意は定かでないが(その方が華やかでいいじゃない、と軽く言っていましたが...)、そのことにより、恐らく、この特集は世界と社会の関係を露わにしようとする方向に進んだことは確かだ。あるバランスの悪さがこの社会にはある。中平卓馬や、あるいは灰野敬二のような人は、そのバランスの悪さに徹底的な違和感を感じ、外側にあえて向かっていく。しかしまた、朝吹真理子や最終日のスカイプトークで出演してもらった河瀨直美は、同じように世界や社会を捉えているにも関わらず、同時にそのどちらにも存在しているような、無理のない存在として生きているようなに見える。それはもはや人間という獣と言ってもよいような、慈愛と凶暴さに満ちた存在...もちろん、これは男性である、私の主観でしかないのだれど、それはこの特集のある大事な気づきでもあったことは、一言書きとめておきたい。

「映画が社会から追放された」と纏めるのは簡単だけれども、私はデモに行くことと、映画を上映することはあまり違いがないと思っている。本当に社会変革を目指したければ、官僚や政治家になってネゴシエーションをするのが現実的だし、路上をただ歩くデモは、警官隊によって確実に社会とのラインを引かれていて、そもそもそこを目指しているのではないのだろう。だとすると、何を行為しているのか。それは、なぜ映画を観たり上映するのだろうかという問いに繋がるはずだし、それは私にとってこの先も考え続けていきたい問いだと感じている。
(2012/8/10)

 

左から橋本慎太郎氏、小原真史氏、朝吹真理子氏
左から橋本慎太郎氏、小原真史氏、朝吹真理子氏

後日談(宮岡秀行):

2というのは、社会性のような気がします。恋人たちは、だからそれだけで、社会たり得るように思います。一方国家は1を求めます。独占や統一が国家の夢であれば、結婚という社会的な制度や出産や育児をめぐる様々な保護機能も、1の思考です。マルクスが、人間は社会的な動物でしかないかのような発言をしていますが、ある時間にある場所に行き誰かに会うこと自体がすでに制度に囲まれたものだと思います。朝吹さんが、当日トークで、「いつか誰にも記憶に残らない小説を書きたい」といい、中平さんや岡部さんが子どものような眼差しで土に触っているように見えたとしても、それ自体は既に一度社会化された触り方だと、私は疑うのです。 

 

映画は不思議なもので、どこかプラトンの洞窟のような、そこを疑うことすら「亡くして」しまうような恍惚的な幸福感があります。受け身で生きていく人にとっては、ここは孤独の王でいられる定点、そして映画館は定点観測の場所でしょう。

映画館から出て、いま見た映画を、ああでもないこうでもないというのが、『映画千夜一夜』という本だったように、映画の醍醐味は、誰かと映画を見た後に、おしゃべりする2の思考であるように考えます。安藤尋にとっての佐々木敦さんが、私にとっては青山真治さんが10代のときのそのお相手であり、いまの自分たちの映画思考の土台は、すでにそのとき形成され、あとはそれを忘れていくプロセスかも…とは、安藤さんとアップリンクの外で立ち話したことでした。

 

実際、ゴダールやトリュフォーも2の思考が批評家時代以前にすでに出来ている気がします。

フランス社会が、日本よりも成熟しているとしたら、そういう映画館の外の時間が豊かだからではないか、と想像しながら、リュック・フェラーリのパーティーの場面など撮りながら、感じていました。あの場面も当然、2(カップル)が三組映っていますが、カップルで映画を見て、音楽を聴いて、「議論」する。日本が国際的な意味での社会性を欠いてしまうのは、どうもここにあるような気がしてしまい、同時に、その成熟拒否の態度が、マーケットで有効な点も、ここにある。阿倍和重さんがそのノンフィクションで詳細をリサーチした後期資本主義の諸相です。

 

誰かを誘って映画に行きなさい。とくに男性に限ったことではないかもしれないけど、TSUTAYAや飲み屋と本屋だけが人生になる後期男性社会は哀しいし、淋しいし、誰もが中平卓馬のようにはなれないわけだから。

 

 

2012年

8月

10日

三日目/ゴッサムシティより

                                           text 宮岡秀行

イベントが中日(なかび)を迎え、動員に繋がった。
でも繋がると同時に、映画が社会と繋がっていないことも実感した。
 
詩人で映画監督の福間健二さん、映画監督の舩橋淳さんとの対談を司会して、アメリカ映画についての話題になった。
公開中の『ヘルタースケルター』のような日本映画を見るよりは、『ダークナイトライジング』のような、必ずしも出来がいいとはいえないアメリカ映画を見ることの方を、僕は好むと言ったのが、きっかけだった。
福間さんが、主観ショットと客観ショットの区別が日本映画にはあり、それが自分にはよくわからないという齟齬も、私には、社会と映画とが主観と客観とで分離されてしてしまう「日本」のようにも感じられるし、舩橋さんの新作『フタバから遠く離れて』は、そこを問おうとしているような気がする。
その映画の主題歌を提供した坂本龍一さんは、舩橋さんも参加した脱原発集会で、「たかが電気のために何で命を危険にさらさなければいけないのでしょうか。お金より命、経済より生命」(http://youtu.be/EiKFO190IEw)と訴えた。電気と命、経済と生命、ここにも主観ショットと客観ショットの区別が見られるようだ。
 
この上映会の初日に、管啓次郎さんが、『わたしたちの間の徴』の岡部さんを見て、「世界中のあらゆる儀礼に見られる大地と人間との関係を感じた。しかも儀式の制度抜きに」とおっしゃったときに、世界と映画とが一瞬接続されたような気がしたのは、『ダークナイトライジング』のゴッサムシティが、どう見てもニューヨークに見えてしまう(ニューヨークにしか見えないというべきかもしれない)その接続感に近い。
映画を見ているとき、誰もがバットマンが存在するゴッサムシティの世界の住民になっているのに、ゴッサムシティを俯瞰するショットが出てきて、そこに通じる橋が音もなく崩れ落ちるとき、突然そこがニューヨークになり、ひとりの個となって現実が存在していることのインパクトに驚くという体験は、日本映画ではほとんど味わうことのない不気味さだ。映画としては前作のバットマンが遥かに出来はよいけれども、クリストファー・ノーラン監督には主観と客観の区別は前作以上に崩落している。
 
本上映会や、単館上映や映画祭に行っても、映画が社会から追放されたという感を拭えないのだとしたら、いま映画はどこに在るのかを知る必要があって、少なくともこのような特集上映の中にはゴッサムシティのような「社会」はないだろう。
 
今回特集した白井戦太郎の戦前の武士道映画『柘榴一角』は、戦意高揚目的というか、どこかで軍国主義を煽る細部に充ちながら、細部においては、「間の取り方と娘たちの健気さが印象的」との意見を、福間恵子さんからもらった。
そうした細部を見分ける目が一方でありながら、戦意高揚には、どこかでゴッサムシティ映画に似た魔力があり、芸術表現が最終的には右翼的な傾向を帯びることも認めたくなるのである。
日本の映画人では河瀬直美が、その最右翼だろうが、『火垂』の中で、田園が海にディゾルブするとき、日本島がすぐにでも水没するかのようなゴッサムシティの夢見心地が一瞬、日本映画でも実現したような錯覚がしたのは、細部の拡大解釈だろうか。
 
アップリンクを見渡すと、ひとりで映画を見に来た観客が目立つ。
ゴッサムシティのように、『ヒューゴ 不思議な発明』を見たあと、「あの駅はいまのオルセー美術館にあたる位置にある駅で、あの駅が美術館だと想像して見ると映画の印象が違ってくるよ」とMと話したことを思い出す。
映画は中年以上が二人で見に行くメディアであり、そんな会話を誘発することが、映画鑑賞以上に大事な、社会行為であることを、日本は身につけて来なかったのかもしれない。
 
(2012/8/06)

後日談:

先日、2011年3月12日に震度6強の大地震に襲われた長野県の栄村で、全壊判定を受けた古民家の土壁造りに参加しました。「土を塗りこめる作業は、祈りをこめることにむいている」と実感したところです。