スタジオ・マラパルテの宮岡秀行氏が、8月に渋谷にあるアップリンクで上映会をやるという話に、縁あって参加することになったのは5月中旬頃。作品の選定もこれからという段階から関わらせて頂いている。
その時点で既に決まっていたのは日程と場所のみ。これは「8月4日から8月8日の5日間を使ってアップリンク一階のファクトリーで行う」となっていた。日程が決まっていた理由は、これから会場のスケジュールを押さえるにあたり、4日以上連続使用できるのがそこだったという現実的側面。
加えて宮岡氏が7年前にこのアップリンクで公開した『リュック・フェラーリ-ある抽象的リアリストの肖像』という映画に出演している現代音楽家フェラーリの七回忌が8月であること、併せて、宮岡氏が京都の学生映画祭で発見し、高く評価した今泉かおりの劇場デビュー作が直後にこちらで上映されるということを踏まえ、この場所で、この時期に、という巡り合わせで始まったのだと思う。
またその段階で、内容の大筋としては、マラパルテが権利を持っている現代音楽家リュック・フェラーリのドキュメンタリやジョナス・メカス、ビクトル・エルセなどの、近年東京でほとんど上映されてこなかった作品群を、この機会に上映しようということ。しかし、それだけでは偏りのあるプログラムになるので、他の作品を組み合わせて新旧、ドキュメンタリ/フィクション、国籍の区別なく選定し、今、東京で上映する意味のある立体的なプログラムとしようということだった。
つまりはこの段階で本特集上映のテーマらしきものは「ほとんどなにもない」状態であった。そこから何が立ち上がるのかというのを試してみるというのが主催者の宮岡氏の本願だったのかもしれないが。
あるひとつの特集上映を組むというのは、その作品を好きか嫌いか、良い悪いという判断を超えて、それぞれが響きあい、一つの全体を為すような、ある理想的な風景画を描くことに近いのでは無いかと感じる。
ただ、今回のようにほとんど何もない(ただそれは「ほとんど」であって多分何かは、ある)枠組みの中に、偶然立ち会うことになってしまった私としては、まずは広がる風景に一つ一つ目を凝らして―例えばそこが、どこかの海辺の光景だったと想定して―、何か見過ごされている大事なものが砂に埋もれているのではないかと考えたり、あるいは打ち上げられたクラゲの死骸から、何か昔の記憶を掘り起こそうとしてみたり、はたまた通り過ぎる扇情的な水着下着のお姉ちゃんに目を奪われ無為な時間を過ごしたり、もはやビーチに場違いに佇む一人の異邦人と言った風に考えることの日々だったように思う。
しかし、そのようにして考えていくと、やはり何かが見えてくるのである。
フェラーリのその作品は7年前の公開当初に一観客として観ていたが、これと併映する作品としてすぐ思いついたのは、デルク・ベイリーを追ったドキュメンタリ『one plus one 2』で、これは感覚的にキャメラの位置がとても似ていると感じたのだが、それもそのはず、同じキャメラマンで撮影されていることをすぐに宮岡氏に指摘された。
あるいは、また違った方法ながらも被写体との距離感が素晴らしい作品が何かと考えると『カメラになった男 写真家 中平卓馬』が思い起こされた。
続けて、これと対照的な作風のドキュメンタリがないかと考え、何故か10年以上前に一度観たきり、ほとんど思い出すことのなかったソクーロフの小品『ドルチェ―優しく』を思い出した。
これは奄美大島で島尾ミホを捉えた、フィクションなのかドキュメンタリなのかよく分らない作品だが、これを宮岡氏にメールにて伝えてみたところ、それであれば『島の色 静かな声』という映画が出た。
おそらく奄美の風景の連想から、宮岡氏の記憶から流れ出た映画だが、こちらは後日観て、丁寧に、端整に、衒わず島の人々の生活が静かに力強く描写されている素敵な映画で、ぜひ上映に加えたいと感じた。
また、その奄美の魅惑的で慎ましくも、豊かな映像を観ていて、逆に北海道の茫漠とした殺風景な風景を、抗いがたく魅力的に捉えている『TOCHKA(トーチカ)』を上映してみてはどうかと考えた。これに対し、宮岡氏からはトーチカであれば同監督の『よろこび』に加え、北海道の風景の繋がりの中で『7/25【nana-ni-go】』という映画が出てきた。
このように半分連想ゲームに近い形で、しかしルールは設定せず、むしろルールをそこから導き出していくような方法で本特集上映のプログラムが組まれていった。
しかし、そこにあるルール自体はついぞ明確に言葉として発せずにいた、というのが、むしろ重要なことなのかもしれないと今は感じる。分かり易いキャッチフレーズは、個人の記憶や体験を一元化させるうってつけのツールだからだ。
従って、現段階で上映まであと一か月というのに、特集上映のタイトルすら決まらなかったのだ(とこれは声高に言うことではないかもしれないが…)。いや、それでもよいだろう。ひとつの風景で出会って名づける言葉がなければ、ただじっと眺めて、なんでもないような細部に目を凝らし、そこに響いているあらゆる音に耳を澄ませていればよいのだと思う。
そんな「ほとんど何もない」ような風景が、観ているあなた個人の、思いもよらなかったある部分を震えさせ、掻き立てる、そんな体験となればよいと願う。
岩井秀世
2012/7/2
追記:写真は潮見坂付近の海辺。
広重も描いたこの光景を、ちょうど上の海辺についての文章を私が東京で書いている、ほぼ同時刻に、宮岡氏により撮られたものである。